第一話 伝説の始まり
拝啓 お父様、お母様。春風が心地よいこの頃、いかがお過ごしでしょうか。シユリはもうダメかもしれません。だって、今まさに人生最大の危機なんですもの。
 目の前の仁王立ちの巨漢に、私は為す術なく震い上がる。身長差五十センチは、まるで大人と子供のそれだった。
あぁ、神様。何故こんな事になってしまったのですか?


 時は遡り、五分前。
「あぁーもう! なんで私がこんな事やんなきゃいけないのよっ!」
皐月シユリはイライラしていた。かわいい制服につられて、実家から遠く離れたこの学園に受験し、ギリギリ合格したまでは良かった。だが入学早々、遅刻をやらかし教師から大目玉。その上、罰として空き教室の清掃を一人でやらされていたのだ。
「確かに寝坊はしたけど、それもこれもあの厳しい女子寮の規則のせいよ! 時間通りに行動が厳守とか言いながら、誰も起こしてくれないじゃないのよ! 期待しちゃったじゃない、バカ!」
 新生活を夢見過ぎたあまり、訪れた現実とのギャップに怒りの方向性がよくわからなくなっていた。それでも、罵詈雑言を吐きながらサボらず清掃を続けている辺りは、根はマジメである事を示していた。
「フゥ…やっと終わりか…。んぅ、疲れたぁー」
ようやく長かった清掃も終わりを見せ、背筋を伸ばしながら一人ごちる。最後の片付けに、バケツの水を捨てに行こうとした時だった。
廊下の前方から、二メートルはあるだろう巨漢が歩いてくる。それも舎弟付きで。いわゆる、不良という奴である。学ランを大胆に開き、口にはどっかの草の茎を加えている。なんか古臭い感じもする。
穏便且つ平坦な人生をモットーに歩んできた彼女にとって、それは驚異以外の何者でもない。関わらないようにしよう、と心の中で硬く決意を固めた。
だが、彼女は忘れていた。自分が驚異的なドジ属性持ちである事を。
「廊下の端を歩けば絡まれる事も――へっ?」
持ち前のどん臭さを見事に発揮した彼女は、何も無い廊下で、それもよりによって巨漢の目の前で盛大にコケた。宙に舞うバケツ。導かれる様に、ひっくり返ったバケツは巨漢の頭へと突き刺さった。バケツ人間の誕生である。
「あ痛たたぁ…。あっ――!?」
打ちつけた尻を擦りながら、彼女は前を見た。そこには頭はバケツ、体はびしょ濡れ、しかも雑巾の臭いという最低のオプション付きの巨漢が仁王立ちしていた。
「あ、兄貴ィ!? 何すんだこのアマ!」
「ひ、ひぃ〜!? ご、ごめんなさい〜!!」
御代官様に裁きを受ける悪人よろしく、シユリはすぐに詫びを入れた。それはもう土下座の勢いで入れた。だが、教室の汚れを一身に背負った巨漢の怒りは、その程度で収まるわけもなく。
「……てめぇ、俺は女だからって容赦しねぇぞ!」
「ひぇ〜!? ど、どうかお命だけは〜!!」
 こうして、彼女に人生最大の危機が訪れる事になった。


以上、回想終わり。ここから本番。
バケツからチラリと覗かせる、巨漢の顔はまるで般若。対するはチワワのそれ。圧倒的な戦力差は絶望しか生まなかった。
「俺も男だ…。拳骨一発でカタを付けてやろう」
「さすが兄貴! こんな糞アマに情けを掛けてやるなんて、さすが兄貴だぜ!」
 女に手を上げる時点で全然男らしくないし! 一言でどんだけ兄貴押すんだよ! なんて思わず言いたくなっちゃうが、ここは我慢するシユリ。
「さぁ女、気合入れろよ…?」
「ひぃぃぃっ!?」
身長差のあるシユリを殴りやすい様、腰を屈める巨漢。改めて目の前で見ると、その巨体がいかに凶暴かよく分かる。頭にハマりっ放しのバケツのシュールさなど、シユリにはもうどうでもよかった。
思いっきり腕を振り上げ、殴りかかる体勢バッチリの巨漢。バケツで見えづらいのか、顎を突き出しバケツの隙間からこちらの様子を伺っている。
「いくぞぉぉおっ! 気張れやぁぁ!!」
「き、きゃああぁぁー!?」
恐怖で逃げる様に後ずさるシユリ。だが、ここで奇跡が起きた。持ち前のドジが発動し、バケツの水で彼女の足が大きく滑った。そのまま滑り上がった足は、突き出していた巨漢の顎目掛けてサマーソルトの如くクリーンヒットした。そのまま背中から落ちるシユリ。
「―――っ!? あ痛ったぁっ!!」
 まるで頭が下にあるコの字の状態で着地したシユリ。スカートが捲れ上がり、女子にはとてつもなく恥ずかしい恰好だが、そこは無問題。掃除する前にハーフパンツは装着済みだ!
「…てめぇ、一度ならず二度までも…! よくもやってくれたなっ!!」
シユリ渾身の蹴りを食らっても、バケツの巨漢は平然と立っていた。狙ってやったわけではないが、当然の如く巨漢の怒りは更に増していた。
「わ、わわわぁぁ〜!? す、すいません、わざとじゃないんです〜!!」
「安心しろ…一撃で、、葬…り…アラ?」
突然、フラつく巨漢。シユリと舎弟が茫然と見つめる中、フラフラと辺りをうろつき始めた。
「な、なんだ、足が…? えぇい! このバケツ、前が見づらいんじゃあぁぁいっ!!」
力を込めて勢いよくバケツを取ろうとする巨漢。だがすでにそこは窓枠であり、バケツに引っ張られる様に巨漢は窓から落ちていった。
「あ」「え」
 合わせた様に声を漏らす残された者達。二人にも何が起こったかよく分からなかった。

説明しよう!
 シユリの放った滑り蹴りによって、巨漢は顎から脳を揺さぶられ脳震盪を起こしていた! まともに歩けない状況で、視界はバケツによって塞がれ何も見えない状態!フラフラと窓に近寄って行き、気付いたら勢いよく落ちて行ったとさ! 以上、説明終わり!

「あ、兄貴イイイィィィッ!?」
 急いで階段を駆け下り、外へと走る舎弟。シユリはチラッと窓から顔を出し、下を見た。草木に囲まれ、大の字に朽ち果てたバケツの男がそこにはいた。ここは二階だが、おそらく大事には至ってないだろう。
 それを見て安心した彼女は、風の如く駆けてその場を後にした。ようは逃げた。狩人に追われるガゼルの様に、すたこらさっさと逃げた。


 翌日の朝。
 逃亡劇から夜が明け、シユリの目の下にはクマが出来ていた。当然、昨日の出来事が原因である。大チャンスと思い逃亡したが、何も解決していない事に気付いてしまった。また彼等に出会ってしまえば同じ事の繰り返しである。
 今日に限って、寮母さんは起こしに来るし、引き籠り作戦もダメだった。万事休すである。延びた命はたったの一日だけだった。
 とぼとぼと登校していると、校門に見えしは、バケツの巨漢とその舎弟。どうやら無事だったらしい。何故、今もバケツを被っているのか謎だが。
「お、兄貴! 来ましたぜっ!」
「え、ちょ、待ってーっ!?」
 逃げる間も無く、思わず恐怖から目をぎゅっと閉じるシユリ。だが、想像していた痛みはなかった。恐る恐る目を開けると、そこには男が二人、方膝を立てて座っていた。
 あまりの謎行為に、シユリは困まり思考が停止する。続々と登校する生徒が、三人の姿を見てクスクスと笑っている。あまりの気恥かしさに耐えられなくなったシユリは、顔を赤くしながら二人に声を掛ける。
「えと……あの、何をしているんですか?」
 それを聞き、バケツの巨漢はニヤリと笑った。いや、実際にはバケツで顔が見えないので、そんな気がしただけだが。
「姐御、あんたの強さには恐れ入った! これからは、あんたがこの学園をシメてくれ!」
「……ハァ?」
 こうして、入学早々に女番長にさせられた、皐月しゆりの伝説が始まった。
by絶望君